長谷寺は、天平年中( 729 年)の行基菩薩が、当嶺に登って供養修禅をした所で、その後も「平城天皇の大同 2 年( 807 年)弘法大師の創肇なり」と古伝縁起に記されております。
《世阿弥》
古来、長谷寺を訪れた人は数多く、その中でも永享年間( 1431 年)佐渡に配流させられた観世元清(世阿弥)は、その「道の記」に「山路を下れば長谷と申して観音の霊地にわたらせ給い故郷にも聞こえし名仏なれば懇に拝し]と記している
《直江兼続》
直江兼続は、主・上杉景勝とともに上杉謙信の遺風を尊び義を重んじ、民心を安んじる治政を第一とした。窮地に在っては、常に義の真理を貫き、強者に屈せず堂 々 と対峙して上杉家の威風を示した。学問を尊敬し、当代一流の高僧たちとの親交を深めた文化人としての素養に、かつて秀吉は「天下の治政を任じ得る人物」として兼続の人品を武士の典型と絶賛している。
兼続は、「愛」の一字を兜に掲げた。これは、「国の成り立つは民の成り立つをもってす」と言う師通天存達の教えで兼続生涯の理想であった。そのため兼続は生命をかけて上杉家を守り抜いた。
長谷寺との係りは、天正十七年( 1589年 )上杉謙信の嗣子景勝が佐渡国政略の際、家老直江山城守兼続は当寺の再興に尽くし、文禄四年当国支配役鳥羽備前守に令を下し寺領を兵火の災難から保護するために努められた。
《小倉大納言実起》
同じく天和元年に佐渡に流された小倉大納言実起は、「思いきや都に近きはつせ寺山のしげみをここに見んとは」と詠じています。
《会津八一》
近年に入っては、次の作品があります。
「うぐいすや苔滑らかに舌老いたし」
《青野季吉》
「長谷の四観音はありがたや夏の夕に燭ささぐわれ」
《寺の宝物(軸物)》
・伝 弘法大師御筆「不動明王図」 天長年間( 826 年)
・興教大師御筆「不動明王図」 保延年間( 1137 年)
・一休禅御筆「乾坤一家一国心」 文明年間
・藤原定家筆軸物 文暦年間( 1234 年)
・竹村佐渡奉行「観音開扉之図」